"これは私がかつて勤めていた美術館でのお話しです。
某有名観光地の山際に立地するその美術館には毎日多くのお客さんが訪れます。わりと有名な場所なので、訪れた事がある人もいるかも知れません。
そんな活気ある観光スポットなのですが、実は従業員のあいだにはこんな噂がささやかれています。
「この美術館には何かいる」
誰が言い出したことなのかは分かりません。ただ、確かに普通とは少し違った気配がその美術館にはありました。
ある夏の事です。
その美術館は毎年夏になると普段の営業時間を少し繰り下げて、夜の館内をライトアップするというイベントを行っています。約二週間ほどの短いイベントなの ですが広大な日本庭園をもつ美術館だけに、ほのかな照明によって浮かび上がる光景はとても幻想的で、多くの来館者に来ていただいているイベントです。
そのイベントも最終日となり、スタッフの表情にも無事にイベントを乗り切った達成感と少しの寂しさが浮かんでいました。
やがて最後のお客様が庭園から出て、美術館の閉館時間となりました。
最後の方が少し長めにご覧になっていたので、時刻は午後七時を回っていたと思います。
夏とは言えもう外は真っ暗です。厚く茂った庭園の木々の中にポツリポツリと黄色い照明が灯されている様子は美しいけれども、どこか、この世のものではない景色を見ているようです。昔話に出てくる狐火はこんな感じなのだろうと思います。
閉館作業にうつるなか、Aさんという女性従業員が「イベントも今夜で終わりだし、せっかく綺麗な光景があるのだから記念に撮影してくる」と言って、デジカメを持って庭園のほうへ出て行きました。
美術館のHP用の写真を撮るという目的もあったためでしょう。Aさんはひとり薄暗い散策路に消えていきました。
閉館の仕事をしながら十分ほどたった頃でしょうか。
なにやら庭園のほうで従業員が騒ぎ始めました。
(まさか、Aさんが庭園で足を踏み外して怪我でもしたのか。もしかして、裏山から出てきた野生動物に襲われたのかもしれない)
胸騒ぎを感じてそちらに向かうと、従業員がAさんを取り巻いて心配そうにしています。
怪我はないようですが、Aさんの顔は青白く、表情が硬く凍りついたようになっています。
男勝りで気が強く、明るくはきはきとしたいつものAさんからは想像もできない姿です。
「どうかしたんですか」
私は上司に小さな声で聞きました。上司は「いや、なんでもない」と言葉を濁します。
Aさんは他の女性従業員に付き添われて、事務所で休む事になりました。
それ以上は追求する事もできず、また閉館の仕事もあったのでその場でAさんの事を聞くのは諦めました。
それから一時間ほどして仕事も終わりました。イベントはまずまずの成功です。
書類をまとめているとき、ふと、先ほどのAさんの様子が気にかかりました。
ちょうど通り掛った女性の上司に「Aさんは大丈夫ですか」と声をかけると「今は落ち着いてる」と教えてくれました。
「怪我したんですか?」と探りを入れると彼女は「違う違う」と笑います。それから急に声を落として前かがみになり「あのね」とささやきました。
「Aさん庭園の撮影に行ったでしょ」
「はい」
「でね、散策路の光景を取ってたらしいんだ。でさ、最近のデジカメってオートフォーカスじゃん」
オートフォーカスとはカメラが自動的に撮影対象との距離を測って、ピントを合わせてくれる機能です。
「で、風景をびーって撮ってたんだって。散策路の右側の森を撮ろうとしてそっちにカメラ向けたんだって。そしたらさ」
彼女はさらに声を落として前かがみになりました。
「それまでオートフォーカスのモードが風景だったじゃん。いきなりピピってセンサーが反応してモードが切り替わったんだって」
「モードが?」
「対人モード。人を撮る用のモードになったんだって。でもAさんは誤作動だと思って風景モードに切り替えて、もっかい森にカメラ向けたらしいんだ。そしたらさ」
「……」
「またピピってモードが切り替わって、今度は画面に、出たんだって」
「……何がですか」
「センサーが人間の顔を認識したときの、四角いマーク。すぐ目の前に誰かいますっていうマークだよ」
「まじですか……」
「Aさんは度胸があるからね。悲鳴も上げずにすぐ引き返してきたってわけ。で、休んでる」
その時の私の顔は引きつっていたのでしょう。上司はどこか嬉しそうに笑いながら身体を離して歩きさって行きました。
今になって思い返せば、女性の上司にからかわれただけなのかも知れませんが、あの時のAさんの青白い顔を思い出すと全てが作り話とも思えません。
それに最初に書いたように、その美術館には「何かいる」と密かに噂されているのです。
誰もいないはずの夜の森で、デジカメが認識した顔。
それはあの美術館に住まう「何か」の顔だったのかも知れません。