亡くなった祖母が30代の頃に体験したというお話しです。
ある夏の日のことです。
家で家事をしていた祖母は、洗い終わった洗濯物をかごに抱えて物干し台に上がりました。
よく晴れた夏の日の午前中でした。突き刺さるような眩しい日差しがこれから昼にかけて、どんどん気温が上がっていく事を予感させます。
(洗濯物はよく乾くわね。お昼は何にしようかしら。買い物も行かなくちゃだし)
これから片付けなければいけない仕事をあれこれ考えながら洗濯物を物干し竿に掛けていると、道路をはさんで向こうにあるご近所さんの庭に誰か出てくるのが見えました。
それは祖母の友達の女性でした。仮にSさんとしておきましょう。
Sさんは白地に水色の花柄をあしらった夏物のワンピースを着ていました。祖母も見たことがあるSさんのお気に入りです。
それを着たSさんが縁側から出てきてサンダルに履き替えました。
祖母は声をかけようか、どうしようか迷っていました。
いくらご近所さんの友達でも、道路を挟んだ向かい側に大声で話しかけるのは少し恥ずかしかったのです。
(こっちを向かないかなあ)
と思って洗濯物を干しながらちらちら見ていると、Sさんは庭の脇に寄せてあった如雨露を手にって、庭の蛇口から水を入れ始めました。
そしてアサガオの植え込みに歩いていって、水をあげ始めました。
Sさんはアサガオが大好きなのです。Sさんの着ているワンピースの花柄も実はアサガオです。
(今日は暑くなりそうだからねえ。そうだ、うちの庭にも少し水を撒いてやらなきゃ)
そんな事を考えていると、やっとSさんが祖母に気付いてこっちを見ました。それからにこっと微笑みました。
祖母も洗濯物を干す手を止めて手を振りました。
友達とはいいものです。言葉を交わさなくてもこうやって少しお互いの顔を見合わせるだけで、何となく穏やかな気持ちになれるのですから。
こうして友達の顔を見ているときは、仕事の忙しさや大変さを少しの間でも忘れる事ができます。
祖母は満足して残りの洗濯物を干す事に集中しました。全て物干し竿に掛け終ってからもういちどお向かいを見た時には、Sさんは居なくなっていました。
そろそろお昼時ですから、台所に向かったのでしょう。
祖母も空になったかごを抱えて物干し台から降りました。屋根の下に入ると目の前が一瞬真っ暗になります。
外は本当によいお天気なのです。
今日のお昼ご飯を何にしようかと考えながら、祖母は一階まで降りました。別室にいる義理の母(私から見れば曾祖母)に声を掛けてから台所に立ち、素麺を用意します。
義理の母と二人で居間の食卓についた祖母は「そういえば」と切り出しました。
「Sさんは本当にアサガオが好きですねえ」
「Sさんって、お向かいのSさんかい」
「そうです。さっきもアサガオに水をあげていたから、手を振って挨拶したところです」
祖母がそう言うと、義理の母は急に眉をひそめて「お前、何を言ってるんだい」と言いました。
祖母は何のことか分からず「私、変な事を言いましたか」と聞き返しました。
義理の母はますます眉をひそめて「変な冗談を言うんじゃないよ。だって、お前はこの間Sさんの葬式に出たばっかりじゃないか」
その言葉を聞いて、祖母は一瞬、思考が停止してしまったといいます。
そして徐々にSさんが亡くなっているという事実を思い出して、素麺を片手に「あっ!」と声を上げてしまったそうです。
三週間ほど前にSさんは亡くなっていたのでした。
しかし先ほど日差しの中で顔を合わせたSさんが、余りにも生前と変わらない姿だったため祖母はごく自然にSさんと挨拶を交わしていたのです。
後に祖母は言いました。
「ほんとうに生きているのと変わらないんだよ。いつものワンピースを着て如雨露で水をやって、にこっと笑ったんだよ。全然、怖い感じはしなくてねえ。Sちゃんはきっとアサガオが心配で見に来たんだよ」
真夏の昼間に祖母が見たという幽霊は、アサガオを愛する優しい友達のすがたをしていました。